さまざまなステージで輝く女性たち。
彼女たちの愛する「かたち」を知ることで、
その「ひととなり」がおのずと見えてくるような気がしませんか。
「かたち」から紐解く24のストーリー。
今回のかたちは古いテープレコーダー。
ものに固執しない彼女でも決して手放せない代物です。
「ものへの執着やこだわりが
全くないんです」
「息子もファンの方からのおさがりばかりで、わたしもつい最近まで全部妹のおさがりでしたから。今流行りのミニマリストの先駆けですね」こう言ってあっけらかんと笑う玉城さんだけれど、テープレコーダーは別。十八歳で亡くしたお父様の遺品だから。
「歌謡曲を歌ったテープが入っていたからカラオケ練習にでも使っていたのかな。わたしも歌詞や曲を録音するのに使用していたけど、今はiPhoneになったので何年も使っていません。でもこれだけは捨てられない」
お父様は豪快できっぷがよく、故郷広島の言葉で「ほんま、やれん(どうしようもない)人」だった。
「わたしが子どもの頃、リカちゃん人形が欲しかったのにポケットバイクを買ってきて、無理矢理モトクロスをやらされました。海に行けば沖で船から降ろされたことも。今なら虐待ですよね(笑)」
それでも深い愛情を惜しみなく注いでくれるお父様のことが大好きだった。
「酔っぱらって帰ってくるとわたしと妹の顔を舐めまわすんです、かわええのぉ、かわええのぉって。いま父を思い出すと、悲しくて泣くというより笑い泣きが多いですね」
お父様を亡くし進学を断念した玉城さんは音楽の道を志し上京。二十四歳の時、部屋が借りられずに困っていた中国からの留学生と同居生活を始める。これをきっかけに、三十四歳までの十年間で通算三十六人との共同生活を送ることになる。
「『部屋を借りられない子が学校にいるんだけど連れて帰ってきていい?』と芋づる式に増えていった。留学生のほか、勉強したいけれど経済的な理由で進学できない日本人もいました」
共に暮らした学生たちから
「ママ」と呼ばれ、
学生たちのことを「子どもたち」と呼ぶ。
勉強や学生生活に集中できるよう子どもたちには学費の支払いを優先させ、学費を支払うと生活が困難な子は玉城さんが衣食住を支えた。歌手だけでなく映画やCMの音源制作、講演、執筆活動など玉城さんの活動が多岐にわたったのは、「何としても食べさせなくてはならない母の強さだった」。共同生活は「個人の通帳残高が七万円になったため」泣く泣く解散した。
自分とさほど年齢が変わらない若者を母親として支える。傍から見ると、なぜそこまでできるのかと驚く行動のルーツにはお父様がある。面倒見のいいお父様は、保護司からの依頼で非行少年を自宅で預かり更生を支える活動をしていた。この経験のおかげで他人と暮らすことに全く抵抗がなかったという。
「母親には『血は争えないね』と半ば呆れられました」と笑う。
「共同生活をして、いい意味で生きやすくなりました」
つねに自然体でいられる。ものに執着しなくなったのもこの経験から。
「子どもたちと対峙し日々心が動かされたことで、曲もたくさん作れました。そして改めて思うのは、わたしは子どもたちに必要とされることで生きる価値を見出していた。彼らを助けていたんじゃなくて助けられていた、わたしが寄り添ってほしいから寄り添っていたんだなと」
玉城さんのもとを巣立った子どもたちは今、他国の子たちとの共同生活で培った言語力を武器に社会で活躍している。
「つい最近、アパレル事務所に就職した子から仕事をもらったんです。大変なこともあったけれど、人は育てるもんだなと思いますね」中には結婚し子どもが産まれた子もいて、玉城さんにはすでに五人の「孫」がいる。
玉城さん自身も三十六歳で結婚し、孔音〈こうと〉くんが誕生した。今の願いは、日本語学校を開く夢をもつご主人とともに外国人や日本人、自殺遺児や震災遺児などが寄り添い学べる場をつくること。テープレコーダーとともにお父様から譲り受けた愛情の種を、これからはご主人とともに蒔き続ける。